取材者のことば

福澄聡子(コロンビア)

 私が赴任したのはまだ治安の不安定さが大きく取り上げられていたころです。しかし、職場ですぐに友人ができ、コロンビアの人の温かさに、こんな親切な人たちがこの世にいるのか、と思うようになりました。
 赴任して最初の週末にその友人の田舎に連れて行ってもらい、親族を集めて豚を1頭料理して歓待してくれました。そこで出会ったのが、彼女の姪のリナです。コーヒー畑の中に建つ家で親子4人仲良く暮らし、楽しそうに学校に通い、コーヒーの手入れのお手伝いをする、まるで想像していた通りのコロンビアの子供たちの生活でした。生活は決して豊かではないのですが、子供たちはのびのびと暮らしているように見えました。
 彼らについて特別だったこと、それはゲリラの危険が少ない、私が入れる田舎に住んでいたことでした。現在どこまで平和になったのか正しくはわかりませんが、それでもコロンビア人が自慢げに、コロンビアは前よりずっと平和でよくなった、と語ってくれることくらい嬉しいことはありません。どうかコロンビアの平和がずっと続いて、子供たちが幸せに暮らせるようにと祈っています。

 

 

土橋泰子(ネパール)

 私が赴任したのは、当時創立4年目で地域の人々の寄付金で建てられた学校でした。
 まだネパール手話が作られている最中で、辞典はありませんでした。
 私はまず子供たちからネパール手話を学ぶことから始めました。3ヶ月たち、「すぐに授業ができなくてごめんね」という私の言葉に対してプラサンタは「僕たちの言葉を必死で覚えて理解してくれようとする人に会ったのは初めて。だから嬉しい。ありがとう」と言ってくれました。今なお心に残り、私を支えてくれる言葉です。
 プラサンタは聞こえない世界で生きてきて、手話という言葉に出会って、人とコミュニケーションできることが幸せと思っていました。だから、いつも生き生きとした表情で話し、いつも人を気遣う言葉をプレゼントしてくれて、悩んでいる時には親身になって聞いてくれました。それはプラサンタの友達、家族、先生も同じでした。
「分かろうとする気持ち」はみんなの心にありますね。

 

 

村田富美恵(スリランカ)

タリンドゥが住んでいたのは、政府が河川改修工事を行うために、それまで住んでいたところから立ち退きを迫られて移転してきた人たちが住んでいた地区です。私は自治会や婦人会の人たちと一緒に仕事をすることが多かったので、その地区によく行っていました。その時に仲良くなった子どもたちのひとりがタリンドゥです。人一倍元気で人懐っこい男の子でした。
この本の写真を撮るなかで一番印象に残っているのは、学校に一緒に付いて行ったことです。先生の中にお坊さんがいらっしゃったり、体育の時間も制服のままだったり、授業の合間に軽食の時間があったり、日本の学校とは違うとくことがたくさんありました。
スリランカは仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒などからなる多民族国家です。長く続いた内戦が10年前にやっと終わり、日本では野生動物や仏教遺跡が豊富な観光地として注目され始めているようです。残念ながら、今年、キリスト教会を狙ったテロで大勢の人が犠牲になりましたが、民族や宗教の違いを超えて、平和な時代が続くことを願っています。


能勢高江(ニジェール)

アフリカ、ニジェールという国に住む女の子バルキ。
バルキの家族とは2年間、同じ敷地に暮らし、一緒にご飯を食べ、家族同様のつきあいをしてきました。人懐っこいバルキは遠い日本からやってきた私の「なぜ?」「なに?」をなんでもおしえてくれたいちばんのかわいい先生。
彼女も私に「日本の子どもはどんな生活をしているの?」「何を食べているの?」「どんな服を着ているの?」いろんなことを聞いてきました。
そんな彼女に「今度はニジェールのこと、バルキのことを日本のみんなに紹介してもいい?」とお願いすると、はにかみながらもいつもの笑顔で、「オーメイ!!」(もちろんよ!!)の返事。
いつもそばで見ていた生活も写真に収め、くわしく聞いてみると、知っているようで知らなかったバルキの、ニジェールの子どもたちの毎日が見えてきました。
「好きなものは?」「大切なものは?」「夢は?」…返ってきた答えは???
日本のたくさんの人たちに言葉も気候も文化も違う国に住む子どもたちの暮らしをのぞいてもらい、「おなじだ!」「全然ちがう!!」「おもしろい!!」などたくさん感じることで、みなさんの世界がもっともっと広がるきっかけになればうれしいです。